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多和田葉子の台本による細川俊夫の新作オペラ《ナターシャ》によせて

文◎柿木伸之(美学、哲学|西南学院大学国際文化学部教授)



うめきが反響する言葉が生まれる地獄の底へ



 今、地表から絶えずうめきが溢れている。黒煙を上げ続ける戦火に巻き込まれた者のうめき。気候変動とともに激甚の度を増している洪水や旱魃かんばつのために、生存の場所を失った生きもののうめき。地球規模の経済の流れを加速するための過酷な労働によって、生命を絞り取られている者のうめき。地下では生きものの化石も、人間の生産活動のために搾られてうめいているのかもしれない。



 これらのうめきは地上に溢れ、海のように波打っている。作家にして詩人である多和田葉子との協働によって創られる細川俊夫の新しいオペラは、こうしてうめきが地球に満ちているのに耳を澄ます。細川の音楽は、その音を多様な言語で、さまざまな場所の空気を運びながら響かせるだろう。ただし、うめきは未だ言葉ではない。それは声にならないまま痛みを洩らす。その出来事は実にはかない。



 ほとんどのうめきは、聴き取られることなく消えてしまう。それとともに生産と消費は、人間を含めた生きものたちの生存環境を壊しながら続いていく。戦争による破壊も止まない。このように、地表から溢れるうめきが受け止められないのはなぜか。日本語とドイツ語を行き来しながら創作活動を続ける多和田葉子は、その要因の一つが人間の言語にあることを見抜いている。



 「ビジネス」を動かし、物質的な快楽を煽る記号としての言葉。それは今、地球を覆う電網ウェブを駆けめぐり、途方もない騒音を立て、時にディジタルな炎を上げながら、苦悩する者たちのうめきをかき消している。さらに、意味が顧みられないまま人に投げつけられた言葉は、対話が不可能になるまで人々を引き裂いている。それによって傷つけられた者のうめきも聴き取られることはない。



 『地球にちりばめられて』、『星に仄めかされて』、『太陽諸島』の三部作をはじめ、多和田の近作は、こうして人間の言語が破滅的な状況を出現させていることを正視しつつ、そのただなかで人と人が出会い、言葉を介して心を通わせる希望をひらめかせている。そのような文学と細川の音楽の交響から生まれるオペラは、他者へ向けて言語が自己の境界を越えていく動きを歌に乗せながら、魂の邂逅かいこうへの希望を鳴り響かせるだろう。



 多和田の三部作と同様、このオペラでも異なった背景を持つ二人が出会う。一人は、ウクライナの戦渦を逃れてドイツへ来たと見られるナターシャ。もう一人は、大災害に遭って親を失った後、旅に出たと思われるアラトである。後者の名は、荒ぶる神とともに新しい人を連想させる。ただしオペラのなかで、この二人の出自が明かされることはない。二人はメフィストの孫と名乗る案内人に出会う。彼はゲーテの『ファウスト』の世界から来たのか。それとも無数のファウスト博士ドクトル・ファウストゥスがいる現在の世界の鍵を握っているのだろうか。



 ナターシャとアラトは、メフィストの孫に導かれてこの世の地獄を巡っていく。その過程を伝える音響を体験するなら、もはやこの三人の歩みを外から眺めることはできない。細川が産み出す音響は、あらゆる方向から観る者を包み、地獄の内側へ導く。作曲家は、電子音響を含む音響の技法を駆使し、劇場に一つのトンネルを出現させるだろう。観る者はその内部で、自分たちのなかから生じた地獄の業火を目の当たりにする。



 この世にあるのは洪水や旱魃といった災害の地獄ばかりではない。このオペラでは、ビジネスやエンターテインメントの世界の内側にある地獄も、音楽によって露わにされる。この地獄には底がないかのようだ。ダンテの『神曲』を思わせる仕方で、下へ下へと地獄を経めぐったナターシャとアラトは、すべてが沈黙する場所に至る。そのことを確かめ合った二人のなかには、新しい言語が萌していよう。



 地獄の底で心を通わせたナターシャとアラトには、地球のうめきが聞こえているのかもしれない。そして、地表に溢れるうめきを受け止める言葉の誕生を二人の歌から予感するとき、観る者の心にはひと筋の通路パサージュ)が開かれているにちがいない。このオペラは音と言葉の力で、人間の世界でうめきをかき消されてきたものたちがいるもう一つの世界へ通じる橋を架けるだろう。



 細川俊夫と多和田葉子の協働によるオペラは、たしかに愛を歌う。ナターシャとアラトの地獄の道行きは、パミーナとタミーノが経験する火と水の試練を思わせるかもしれない。しかし、ここにあるのはモーツァルトとシカネーダーによる《魔笛》が響かせたのとは別の愛である。性の境界も、言語の境界も越える新しい愛が歌として鳴り響くとき、新しい人間が言葉となる。今までにない多言語性と多元性を示すこのオペラは、地獄の底での人間の新生の予兆である。

柿木伸之(かきぎ のぶゆき)

西南学院大学国際文化学部教授。研究分野は美学を中心とする哲学。20世紀前半の思想家ヴァルター・ベンヤミンの思想をはじめ、近現代ドイツ語圏の思想を中心に研究を進める。芸術評論も行なっている。『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』(インパクト出版会、2022年)、『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)などの著書がある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)がある。ひろしまオペラ・音楽推進委員会の主催公演の作品解説なども手がけた。

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